昭和44年11月16日 特別奉修委員
えー、例えば今日の青年会の、大会をここで開く事でも、私が開けと言うて、あの開かせて頂くのは、なら大した事はないと思うですね。ね、開かにゃいけんと言われて開くのじゃなくて、青年会事態の中にそういう働きが起こって、盛りあがって来たところに、大会があるところに、いつも、いわゆる神ながらなおかげっていうのがある。
例えばこの頃、豊美の結婚式の事の、あの園遊会なんかでもそうである。私が、園遊会をしたらどうじゃろうかと言うのではなくてですね、それが信者側からそういう働きが盛りあがって来てから、あれだけの盛りあがった園遊会が出来るようなもんだと。これはもう、すべての点がそうだと、こう思うですよね。
ですから、その、そこのところから、こう思わせてもらうのに。その、お互いの信心でも、なるほど話を聞いて助かるという事は、御理解を頂いて、はあ先生がああ仰るから、はあ、そうだなあと思うてただけでは、ほんな事じゃないようですね。
話を聞いて助かるという事はね、そこからですね、言外の言とでも言うかね。お話以外のもの。言外の言と言って、これはね、お話を頂くというのは、本当な事が分かるとか、ね、また今まで知らなかった事が、その、教えてもらったとかという事であってね。それはただの、言うなら知識が出けたというだけであって、それは本当の信心の活力的な物にはなって来ない、生きた働きちゅう事になって来ない。
やはりお話を頂いて行くうちに、信心を進めて行くうちに、修行をさせて頂いておるうちに、フッと自分の心から起きてくる、いわゆる感動と言うかね。いわゆる一心発起といったような物は、あの人の話を聞いて一心発起したといったようなのは長続きせんです。なら例えば、子供達に信心を。はあお母さんがあげんやけんお参りする。これやったら長続きしないでしょうが。
ね、もう子供達自体が、あの本気で信心しようという気になった者じゃなかなきゃ、ほんなもんじゃないようにですね。あの、これは、ならお互いの信心でもそうです。お話を聞いて、そのそこから、あの今までになかった、この生き生きした物が生まれて来る事を願わせて頂く。それが何かの機会に、ハッキリした、それが衝動的な物になり。それが、形に現されなければおられないものになって来ると。
それが、一つの形を作るというものでなかなければ、長続きをしないと思うんですよね。また、その本当な信心、本当な物になって行かないと思うんです。そこんところを一つ、願うて行く信心。その、そのエネルギーと言うかね。例えば、ならここで青年会の方達が、青年会を、大会をさせて、今度させて頂こうと。
そういうような盛り上がりが出けて、なさる。だから、そのもういっちょ、青年会の人達がそういう風な働きを現して行くて言うか。そういう盛り、その思い付きと言うか。そういう事が出けたもう一つ向こうにですね、やはり合楽の一つの活力がある訳です。ね、いわゆる合楽のごひれいが、いわばある訳なんです。ね。そこんところの頂ける、家庭の上においても同じ事。
そういう、その活力と言うか、ごひれいがね、ごひれいが、あの、子供が信心する事になったり、家族が信心する事になったり。または、自分自身の心の上に、今までは出来そうにもなかった事が一心発起出けて、出けて有り難くなったりする事になるのじゃないかと、こう思うですね。どうぞ。
末永信太郎 ( 5月22日 )